【静岡 人語り】 元駒沢大学野球部監督 太田誠さん(78)
2014.8.29 02:07 [静岡 人語り]
■中興の祖から重い要請
35年間の戦いの始まり 社会人野球の電電東京(現NTT東京)で8年間の選手生活を送った私は昭和41年、現役を退きました。
当時30歳で「まだできる」との声もありましたが、社会人として仕事を覚えるには潮時と考えたのです。
配属先は世田谷電話局の営業部門で、係長として技師とともに管内の電話線のチェックや敷設を行うサラリーマン生活が続きました。
母校・駒沢大学は私の担当管内で、当時は学園紛争のまっただ中。
大学の主な建物は学生たちに占拠され、電話線も混乱状態となっていました。
現場で覆面姿の学生たちに「電話が使えなかったら困るだろう」と語りかけながら修復作業を行ったのですが、学生たちは黙認してくれた。こうしたこともあり、駒大では「電話のことなら太田に頼め」という雰囲気になっていました。
駒大から「学監の入院先に直通電話を引いてくれないか」との依頼が来たのは学園紛争からおよそ2年後のことです。
駒大は16世紀に建てられた曹洞宗の学寮「旃檀林(せんだんりん)」が起源で、学監と呼ばれる僧籍のある方が運営全体を統括します。
当時の学監は藤田俊訓さんで、入院先で重職をこなしていたのですが、電話がなくて困っていた。
藤田学監は東京・元麻布にある賢崇寺の住職で、二・二六事件で「逆賊」として処刑された陸軍の青年将校らの遺骨を引き取って埋葬した人物です。
官憲の妨害や世間の目をよそに「仏に罪はない」と合同慰霊祭まで行った気骨の人で、学監となってからは豪胆な財政再建を進め、「駒沢中興の祖」と呼ばれています。
初対面で藤田学監は凛(りん)とした姿勢で「この部屋に電話を引いてくれないか」と声をかけてくれた。
電話の敷設は無事に終了したのですが、この出会いが駒大野球部との縁を再び結ぶきっかけとなったのです。
昭和45年秋、駒大は東都リーグで10敗1分けで最下位となり、私も世話になった小林昭仁監督が引責辞任します。
ただでさえ過酷な入れ替え戦を監督不在で迎えるという緊急事態となり、「代理監督を頼む」と要請された。
「入れ替え戦だけなら」と受諾し、2部初優勝で勢いに乗る国士舘大との対戦に臨みました。
初戦を取った方が1部を勝ち取る。
想像通りの激闘となった初戦、駒大は1点ビハインドで最終回を迎えます。
敗色濃厚の場面で、私は1年生を代打に送りました。
後にプロ野球・近鉄で活躍する栗橋茂で、荒削りながら非凡な才能に懸けてみようと思ったのです。「とにかく第1球目を狙え」と送り出した栗橋は、その初球を右翼席にたたき込んだ。
この同点弾で勢いに乗った駒大は辛くも1部残留を決めました。
重責を果たしてサラリーマン生活に戻るはずだった私に、学校関係者から「このまま監督を引き受けてくれないか」との内々の要請がありました。
当時は管理職として後進の指導に当たっており、さらに長男がまもなく生まれるという時期だったので固辞したのですが、年が明けた46年2月、渋谷の割烹(かっぽう)に呼び出された。
恐る恐る部屋に入ると、藤田学監と大学首脳が顔をそろえている。
藤田学監はおもむろに「日本中に駒沢の名前を知らしめてほしい。
監督を受け継いで、歴史と伝統をつくりあげてほしい」と語りかけてくれ、「10年かかるところを5年でやってほしい。
君ならできる」と付け加えた。
数々の修羅場をくぐり抜けてきた藤田学監の言葉は重く、神妙に聞き入るしかありません。
藤田学監はさらに両親を説得するため、浜松の実家にまで足を運んだことも明らかにしてくれた。
病身の上、大学再建の激務の中で私のためにそこまでやっていただいたのか。
礼を尽くしてまずは両親に説明し、本人の説得に乗り出す。
34歳の若造にも筋を通す藤田学監の姿勢に打たれ、監督を引き受けることを決意しました。
46年3月、私は正式に駒大野球部監督に就任しました。
35年間にわたる戦いの日々の始まりでした。
=つづく
【プロフィル】太田誠
おおた・まこと 昭和11年5月20日、浜松市福塚(現浜松市南区福塚町)生まれ。南部中学で野球を始め、浜松西高校から駒沢大学へ。東都大学リーグで首位打者2回、社会人野球・電電東京(現NTT東京)で8年間プレー、46年から駒大監督に就任。35年間でリーグ戦501勝393敗19分け、優勝はリーグ戦22回、大学選手権5回、明治神宮大会4回。DeNAの中畑清、広島の野村謙二郎両監督や新井貴浩、良太(阪神)、梵英心(そよぎえいしん)(広島)、古谷拓哉(千葉ロッテ)、増井浩俊(日本ハム、静岡高出身)ら多くの人材を送り出した。
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