太田誠 3


元駒沢大学野球部監督、太田誠さん(78)

2014.9.12 07:03 (1/3ページ)[静岡 人語り]

元駒沢大学野球部監督、太田誠さん


 ■強さを支えた「気付く力」 野球の神髄いまだ達せず


 総当たりで勝ち点を競うリーグ戦は各チームの実力が如実に現れます。

勢いで連勝できても翌週まで続く保証はまったくない。

エースを攻略したり、中心打者を徹底マークするなどの研究は最低限で、試合ではベンチが予測もしなかったプレーで点をもぎ取ったり、防いだりすることが求められます。


 こうした瀬戸際の攻防はサインプレーで行うこともありますが、やはり監督ひとりの手腕では限界がある。

常勝軍団となるには試合の流れや雰囲気を読んで実行する、選手個人のとっさの判断力が不可欠となってくるのです。

私はこれを「聞く力」「観る力」「気付く力」として、チームの方針に取り入れてきました。


 後にそろって巨人入りした「駒大三羽ガラス」こと中畑清、平田薫、二宮至ら有望選手の活躍で昭和50年に全日本大学選手権で優勝して日本一を勝ち取った駒大ですが、その翌年もエースは森繁和(西武入団)、捕手は大宮龍男(日本ハム)の黄金バッテリーが最上級生の大型チームで連続日本一は盤石と思いました。

森と大宮は試合中に配球をめぐってマウンドで大喧嘩(おおげんか)するなど非常に個性的で、性格、実力ともそのままプロ入りしてもおかしくないような選手。

しかしこのときのチームは日本一になってないんですよね。


逆に白井一幸(日本ハム)が主将をしていた58年、小粒とされたチームが日本一を勝ち取った。

白井は体は大きくないのですが、駒大らしくとにかく練習する。

白井は入学から1年間をほぼ通院生活に費やした苦労人で、こうした経験が生きたのか、人間として芯が抜群に強く、勝負に対する執着心やカンも秀逸だった。


 白井が率いたこのチームは、ガンガン打って勝つわけではないが、瀬戸際の攻防にめっぽう強かった。

こうした時期を経て、駒大野球部の伝統が培われていったのです。


 勝つために常識を超えたプレーを追求することもありました。

例えば無死一塁でバントのサインを出したとします。

相手チームは雰囲気を読んで内塁手が猛然と前進するシフトを敷いてくる。

まともにやったら成功率は落ちるわけです。

ここでいきなり一塁走者が自分の判断で盗塁をする。

一見すると監督のサインを無視した暴挙で、成功しても大目玉を食らうところですが、「よくやった」とするのです。


 相手は完全に意表を突かれてチャンスが広がるわけですから、これは好プレーだと。

63年の主将、野村謙二郎(現広島監督)はこうした敵味方のウラをかくのが得意な選手でした。


 35年間の監督生活はいい時期ばかりではありません。

石毛宏典(西武)が主将の53年春、前年に春秋連覇して日本一にもなった駒大はよもやの最下位となり、日大との入れ替え戦に回ります。


総力戦となった初戦、最終回に投手に代打を出してなんとか同点に追いついたのですが、もうベンチに投手はいない。

すると事態を察した遊撃手の石毛が投球練習を始めた。

主将として最下位に沈んだ責任を感じ、この非常事態に立ち向かおうという意気込みを見せたのです。


 にわか投手の石毛はなんとか相手打線を抑え、駒大は延長戦を制して1部残留を決めました。

正念場でみせた主将の底力に駒大は救われたのです。


 最後となった平成17年秋、東都リーグで前人未到の500勝を達成しました。

道元禅師は「正法眼蔵」で「自己をわするるといふは万法に証せらるるなり」と記しています。

われを忘れるように野球に打ち込んだ35年間、さまざまな経験をさせていただきましたが、万法すなわちその神髄にはいまだ到達していないと、今も探求の日々が続いております。=おわり






読んだ本

申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。
天国までの百マイル (朝日文庫)
暴露:スノーデンが私に託したファイル
永遠の旅行者(下)
驕れる白人と闘うための日本近代史
震える牛 (小学館文庫)
リヴィエラを撃て〈上〉 (新潮文庫)
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